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2011年10月27日木曜日

けっきょく

けっきょくこーなりました。

かぼちゃーはん

かぼちゃ

今、冷蔵庫にかぼちゃが1個。

昨日スーパーで安売りしていたのでおもわずかったかぼちゃ。
きっとハローウインのあおりでいっぱい出荷されて、いっぱい安売りにかかったに
違いない。

さて何作ろうかな~~。
おもしろくて簡単なかぼちゃレシピはないものかね。

くっくぱっどに相談だ。

2011年10月12日水曜日

漢方小説

中島たい子さんの『漢方小説』
わたしはあんまり漢方の知識が頭に入ってこなかったですが
(説明的なところは読み飛ばしてしまったので)

それを抜きでもエンタメ小説としてよくできていて
大変楽しめます。

くす、っと笑える、そんな小説です。


中島たい子さんて多摩美のご出身なんですよね。
美大出身ってうらやましい、と思うのはわたしだけでしょうか。

美大ってなんか憧れです。

2011年10月10日月曜日

2011年10月9日日曜日

牛乳寒天

てきとーに寒天と牛乳とお水とを鍋に入れて、お砂糖大さじ3杯くらいくわえてぐつぐつぐつ。
あんこをのっけてできあがり。

寒天を発明した人ってえらいな。

2011年10月4日火曜日

しいたけ

今、わたしは小説の通信講座をとっているのですが
その第二回目の課題は名作を書き換えるというものでした。

わたしは、幸田文さんの『みそっかす』という中の『あね』という一文を
書き換えました。

ある意味、しいたけ小説なので
ここにえいや!載せてしまえ!と・・・あしからず。
1か月後の月はじめに講評が帰ってくるのでその時にまた結果をご報告します。

少し長いですがよければお読みくださいまし。
宮本わらじ、というのは私の筆名です。


『あに』

                               宮本わらじ                   

祖父の言葉を私が代弁するに、兄は温厚篤実、しかも容姿端麗の上に幼いころから身体がか弱く、そのような兄を不憫がっては親戚一同誰しも目に入れても痛くないほど愛してやまなかったという。

盆や正月に親戚が本家である我が家に集うと、おじやおばたちは皆一様に本家の孫で長男の兄を褒め称えた。褒めそやす事柄は後をつきないようで、少年から青年期へと顔立ちがはっきりするにつれ、ますます利口そうな目元が祖父に似てきたなどと次々と甘言を弄しては、その利口そうだといわれる祖父の目元がにわかに重力に対する反発力を失ってしまいだらしなく垂れ下がるのを拝むのだった。

わたしがまだ物心つく前のことである。例年にならって正月に親戚一同が我が家に訪れると、兄の顔じゅうをみみずが這ったような赤い腫れが幾重にも浮びあがっていたという。祖父は端から機嫌が悪く、だれかれと酌を取ったり、昨年の思い出をおもしろ可笑しく語れど眉間に刻まれた皺は新式のスチームアイロンでも取れそうにないほどこびりついたままであったそうだ。

正月の集いには、すき焼きをするのが我が家の習わしである。

第一次反抗期をむかえたばかりのわたしは、そんな祖父の機嫌の悪さなど意に介するわけもなく(むろん、さきほども申し上げたが物心さえついていない)母にせっせと取り分けられた箸で小さく切られた玉ねぎやしいたけやにんじんをいらない、きらいとわがままを言っては困らせた。時にむりくりにでも食べさせようとする母を小さな手で制した。その手を母が抑えて口に食べ物を運ぶと、わたしはいよいよ母の顔に爪を立てその皮膚を剥いだ。痛い、と思わず漏れた自分の声に母は怯えた。母は懇願する目で祖父を見たが、祖父は一向に動じることもなく、母にわたしを連れて居間から出ていくように命じたのだった。

兄はとっさに私の食べかけが入った小皿を手に取った。わたしの行いを取り繕うように懸命に食べ残したにんじんやらを食べる。ただ、どうしてもしいたけには手が伸びない。兄はしいたけが大の苦手なのだ。しかし食べかけた手前、食べ残すのはわたしの面目がたたぬ。兄は切れ長の目をますますつまようじ一つ分ほどに細めて苦手なソレを口に押し込んだ。押し込んだはいいが、すぐに飛び出てしまう。満腹で飽和しきっている胃風船になおも空気を入れようとするのだから当たり前である。その上、とても()()重い(、、)ものを詰め込もうとするのだからなおさらだ。

兄は大いに吐いた。しいたけだけならまだよかった。胃の中に入っていたであろう食物もすべてはき切った。これにはさすがの祖父も焦ったらしく、すぐに母を呼び戻して兄の応急処置をさせたそうだ。

これは祖父の大層気に入っている思い出であった。ひとの被を身を挺してまでもかぶったというところがいいらしい。その上、自分の顔に傷をつけた不逞の妹でさえかばうのだから非の打ちどころもない。努力してそうするのは誰でもする修行、そして誰でもすぐに到達し得る階梯で、いうに足りないあたりまえごとであるが、天性おおらかに何のとどまるところなき心の格というものは、「世にありがたいめでたさだ」といって大喜びをしているのである。

わたしは大層な焼きもちやきの上に天邪鬼である。外に出れば兄の容姿や美質をおおっぴらに誇っては、友人や学校の先生らに、天狗になっているのだが、こう祖父が褒めとなえるのを聴くのはいい気持ではない。

しかもこの話が出るときはきまって親戚一同が会する場であった。それは、もはや祖父の時候の挨拶のようなものになっていた。大抵私の低劣なる悪質を親戚に披露され、どうしてきょうだいでこうも違うものかなどと嘆息まじりに毎度やられるのだ。それを皮切りに親戚皆一様に兄への美辞麗句を並べあげるのだから、なおさら素直には聞かれるわけもない。

そこで、このしいたけ美談を封じてしまおうと考え、或る時大人たちの会話のなかへ何気なく、おにいちゃんは好い児に違いないけれど秀才型のこまっちゃくれみたいだといってみた。親戚らは、おや?というような顔をして、それから祖父がすてきにおこった。兄の美しさを説き示してくれるのではなくて、そういうことをいう私を猛烈にこきおろし、下々の性うつるべからずと、ぎゅうという目にあわされた。わたしはますます意固地になっておにいちゃんは褒められたくて猫をかぶっているに違いないのだと言葉を重ねた。この説は多少とも親族には響くものとおもっていたのだが、功を奏するどころか反対にひどいことになった。祖父は見る間に沸点に達し、熱エネルギーを得た祖父の平手が勢いよく私のほほへ飛んできた。わたしが驚きのあまり茫然としていたら、母がわたしの手を引いてその部屋を出た。襖の向こうから祖父が母をこきおろす声が聞こえてくる。わたしは母がとみに不憫になって涙が間欠泉のようにあふれ出た。

しかし母に抱かれながらなおも、そうもこの話はいい話なのか? いよいよ承服しかねて、これはきっと蕎麦屋の風鈴なんだと、しかたがないからこうかたづけておいた。

これは父が死ぬすこし前の話である。わたしはナイフがほしかったけれど、ゆるされなかった。友達は切りだしを持って来て見せびらかした。矢も楯もたまらなくて、家で寝たきりの父にだだをこねた。父は、ナイフなんてあぶないものいけないといったが、同い年の友人も持っているのだからと言い張った。困じた挙句、とうとう引き出しの財布から小金をわたしに握らせてくれた。私は嬉しさのあまり家へ帰る途中もしまっておくことができず、道中で草を刈ってみたり、蟻をつぶしてみたりしていた。みごとな切れ味で満足したのは束の間、たちまち近所の悪がきどもに発見されとりあげあられた。ようようくやしくて道中で泣いていたら、兄が通りかかって肩をたたいた。わたしがまくしたてるように経緯を話すと兄はめずらしく顔を赤らめて意気軒昂にぼくが取り返してきてやると力強く言った。

兄に手をひかれ、悪がきどもが遊んでいるところまで行くと兄はナイフを返すようにと声高に言った。悪がきどもがそれですんなり返してくれるわけもない。兄の前にナイフをかざしては、取れるものなら取ってみろとはやし立てた。兄はめずらしく怒った。祖父のように顔を赤らめてナイフをもったひとりの悪がきにとっくみあいを仕掛けた。ふとした拍子に悪がきが手にしたナイフがその顔にあたって、皮膚が切れた。みな、異様に驚いて一瞬空気がとまったように感じられた。その空気を切り裂くがごとく、ほほを切られた悪がきが、わっと泣いた。泣いたら大人たちが寄ってきて、あれやこれやとわたしたちを問い詰めた。兄が叱られるのは気の毒だと思って「キヨ子がやりました」というと兄はびっくりして黙った。悪がきどもも驚いて何も言わなかった。

その夜、いつも以上にこってりと祖父にしぼられ目を腫らして寝床に入ると、隣で寝巻きを着た兄が立っていた。まっ青な顔をしていた。兄は何もいわず、わっと泣いた。わたしはただ驚いていた。

父は植物の好きな人だった。兄も父に似て、学齢に達しない前からひとりでに草や木に寄せる心をもっていたそうである。わずか百七八十坪のささやかな蝸牛の構えのなかに、この子のためにできるだけ多種類の草木を取り入れようとしたと母からも植木屋からも聞いた。なるほど柑橘類にしても密柑・李・梨というように、二、三本ずつぽつんぽつんと植えてあったのは実地観察用であろう。植物学者になりたかった父は、家業のために、半ばあきらめていた夢を兄につがせたかったのやもしれぬ。仕立ててものにしてやるつもりだったという父の夢が、咲きもせず散りはてたのは兄の長い傷心の種である。

昨年、実家から電報が来たものだから何事かと思っていると、祖父が危篤のため早く帰ってくるようにとあったのであわてて家に戻った。祖父にあれこれ言われるのを押し切って、美術の学校に通うため上京して以来、数年来好き勝手やってきた。今では小さな会社でちょこちょことイラストを描いては手間賃をもらっている。時おり母には手紙をやったが祖父とは疎遠なまま、わだかまりを解く努力を互いにすることもなかった。

家につくと臥した祖父のそばに兄が佇んでいた。やあ、帰ったのかいと振り返った兄がしばらく見ない間にえらくふけこんだように思えた。

臨終近い一日、祖父は兄を見て錯覚を起こしたらしく、「ああ一郎や」と父の名をよび、すぐ気づいて「直己だったか」と遠い眼をした。

祖父の通夜の晩、親戚どもがしばらくぶりに集った。この夜も例にならってすき焼きで明るく祖父を見送ってやろうというおじらの意見で晩や正月のごとくすき焼きが作られた。親戚らは私を見るなり、見ない間に都会に出て洗練されただのとはやし立てた。東京で絵を書いて暮らしているそうじゃないか、どれ一つ見せてみろとおじやおばがやんやと言うので、私は、はあと言って手帳に挟んでいた椿の中に女が佇む挿絵の下書きを見せた。

大業にさわぐ親戚どもから目を外すと、兄がひとり黙々と残ったすき焼きを食っていた。しいたけをひいては、鍋に戻す兄を見て、わたしは兄が急に憐れに思えた。